Friday, March 1, 2013

中国語を話す者は信用できない、に変化の兆しいがみ合うモンゴル人と内モンゴル人、日本が仲介役に

あけましておめでとうございます。・・・と言っても、いろいろ事情があって2週間遅れてしまったが、2月11日はモンゴルにとってツァガーン・サル、旧暦の正月である。

同じ旧暦でも中国とモンゴルでは正月が異なる

「あれ10日じゃなかったの?」と言う人もいるかもしれない。しかし、中国とは違うのだと、この際なのではっきりと言っておかなければならない。

季節の風物詩として、爆竹が激しくなり、龍が舞い踊る中国の春節をテレビで見て知っているためか、「あのあれだろう・・・中国の暦で新年にやるやつだろう」とよく言われるが、モンゴルとチベットには別の暦があり、両国とも仲良く、中国とは別の暦で正月を迎える。

場合によっては正月となる日が中国とは1カ月近く異なる日もある。

・・・と言っても、中国では自分の暦どおりに領内にいる少数民族にも祝わせているようで同じ民族なのに違う日にやるときがある。「お国の事情」というやつである。

中国と言えば、西の端に行っても東の端に行っても同じ時間である。あれだけ巨大な国なのに、米国やロシアのように、様々な時間帯に分けられず1つの時間で運営されている不思議な国である。

そういう国だから、チベットやモンゴルの正月まで「同化」しようとしているように見えなくもない。

さて、それはさておき2月9日、板橋区役所近くのあるホールで様々な地域のモンゴル系の人々が一緒になって、独自の暦での正月を祝うイベントが行われた。

中国の内モンゴルや、新疆などから来ている人々、モンゴル国のモンゴル人、ロシアのブリヤート人など総勢200人以上が参加した大きなイベントとなった。日本で内モンゴルや新疆とモンゴル国の人々が共同して、行うこのようなイベントが開かれたのは、大きな意義がある。

と言うのも、民族が同じでも、国が違うと反目する部分も少なくなかったからである。

モンゴル国、内モンゴル自治区(中国)、ブリヤート共和国(ロシア)などモンゴル系の人々はその多くが地続きのところに住みながら、国境により分断されている。

この状況をどう名づけるのかは非常に難しい。ディアスポラ(離散)ということばで語ることもあるが、人は動かないのに、国境ができてしまった、それゆえ交流できないという状況は、決して離散している状況とは言えないだろう。
国が分けられモンゴル人の間にできた大きな溝

しかし、そのような状況が20世紀になってモンゴル諸族のいる地域では作られてしまった。

1960年代の中ソ対立の中でソ連側についたモンゴルは、中国との行き来はそれほど頻繁ではなく、またある程度管理された中でのものであった。

そのため、お互いがどう変わってしまっているのか、それを明らかにさせる出来事はそれほど多くなかったと考えられる。

しかし、ソ連ブロックと中国の間にあった門が再び開かれて以降、つまり1990年頃からここ20年間の交流の中で生じた文化的な衝突により、モンゴル国のモンゴル人と内モンゴル出身のモンゴル人の間にできた溝は非常に深いものになってしまった。

何がその原因なのだろうか?

もともと中国に対する警戒心は強いものがあった。一時期、ソ連に対する批判が高じ逆に中国に対する期待が高まった時期もあった。

1990年代、国境が開き、人々の交流が盛んになってきた時期にすでに改革開放路線へと方針転換し、商売の経験がモンゴル人よりも長けていた中国出身者との交流で損失をこうむることが多かったため中国人は信用できないというイメージが復活する。

それに伴い、中国とのビジネスを仲介していた内モンゴル出身者も、同じモンゴル語と言っても首都ウランバートルの話す方言とは違い、さらに、中国語も話せるため「中国化してしまった」モンゴル人で信用できないと考えるようになった。

同じモンゴル人なのに中国出身というだけで、敵対心をむき出しにしているモンゴル人を何度も見ている。

かく言う私も話すモンゴル語のアクセントが完璧ではないため、何度か中国の内モンゴル出身者と間違われ、かなりひどい差別を受けたことがある。

内モンゴル出身者からすれば、モンゴルは、道端で行きかう人々から普通にモンゴル語が聞こえる憧れの国だった。そのような憧憬の念の返礼として、敵対心をむき出しにした仕打ちを受けると、自ずと複雑な感情が芽生えても不思議ではない。

ケンブリッジ大学で教鞭を執る内モンゴル出身のウラディン・ボラグ氏は、モンゴル国へ行って生活する中で、その夢が破れていく体験を内省的に省察し、『モンゴル国におけるナショナリズムとハイブリッド性』という1冊の英語の本にして世に問うている。
中国人をパートナーに受け入れる機運

しかし、最近はこのような状況には変化が生じ始めている。

気を抜けばどうなるか分からないという気持ちは相変わらず抱いているものの、鉱山開発など、大きな経済的発展に結びつくプロジェクトに中国をパートナーとして、うまく受け入れていこうと考える人も多くなった。

以前のモンゴルを知る人間からすると、あり得ないと言うだろうが、今、モンゴルにおいても中国語を学習する人が増えてきているという。モンゴルの日本大使館に勤める方から聞いた話である。

また、まだ少数かもしれないが生活が安定し、余裕ができつつあるモンゴル国のモンゴル人自身も、ほかの国や地域にいるモンゴル系の人々への関心を持ち始めているように見える。

他のモンゴル系の人々が住む地域に対して、冷静な声がモンゴルで聞こえるようになったことは、統計的な実数を示せるわけではないが、モンゴル国出身者と内モンゴル出身者の関係が変化しつつことを示しているようにも思える。

その表れの1つとして、日本で今回、内モンゴル、モンゴル国の出身者が合同で旧正月を祝う宴が実現したという出来事を強調したいと思う。

以前であれば、このようなイベントを開くことは困難であったし、両政府の目を気にして、ほとんど来る人はいなかっただろうとも想像できる。実際、このような企画に対する批判の声もあったらしい。

それを乗り越えて開催され、最終的には、200人超という当初の予想を超えた人たちが訪れた。おかげで会場は立錐の余地がないほど混み合い、ぎゅうぎゅうだった。

馬頭琴の演奏、踊り、モンゴルの長唄のほか、ボイスパーカッションなど両地域の才能が集まり、そのパフォーマンスに対し、両地域の参加者は拍手を送った。

組織者として中心的役割を担った方は、内モンゴルとモンゴル国出身者の相互理解を深めるべしという、自分の父親が現状を憂いて語ったことばの意を汲みこのような会の実現に奔走したそうである。
世界中でつながり始めたモンゴル人ネットワーク

ということで、モンゴル人同士仲良くなりましたね・・・で、この記事は終わりではない。以前、「英語や中国語より人生に役立つ言語を学ぼう」という記事の中で、世界さまざまなところでモンゴル人とつながりを持つことになったエピソードを書いた。

モンゴル系の人々のネットワークにおいて内モンゴル出身者とモンゴル国出身者が、部分的に接点を持ち、場合によってはチベット人ディアスポラのネットワークも巻き込んで複雑な形で絡まり合い、世界中でつながっている。

あくまで、人と人とのつながりであることを強調したいが、以前は薄かった内モンゴルとモンゴル国出身者のネットワークが強くなっていく。

日本での動向は、もしかしたら日本だけの動きではなく、現代のモンゴル世界を変えていく、その兆候なのかもしれないということである。

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